少し疲れてしまった
今日黙々と作業。
だけど充電切れかな。
眠くなってきてしまった。
0.5の油性ボールペンが好き。だけどいまよく見えないの。もともと字が小さいの。字の小さいやつは実は気が小さいなんていうけど、私なんてまさにそれだろうな。なので、最近はもっぱら0.7にお世話になっているわけです。
なるべく字も大きく書きます。見えないから。視力の低下じゃなくて、単純に判断ができない、脳の問題だと思う。ぱっとみて認識できない。だから自分でわかりやすいように、わかりやすいように、こんな小さなことでも試行錯誤して生きています。
それでも、なるべく綺麗に残したいから、わからないところはまずはシャーペンで書きます。納得がいけば清書します。それでどんなに気をつけて書いていても間違えてしまうから、修正テープ様々です。
完璧主義は消えたようで消えてない。今までよりも楽に生きれるよう、なるべくなるべく、ゆるく考えようと思ってるけど、まぁ、いいの。大切に残したいものは、自分で納得いくものを残したいから。
少し、想いが溢れています。やっぱりテレビは見れないし、なんとなくみてないジブリ流し続けるのも電気代もったいないな、と、思いだして、最近はYouTubeで音楽を聴いています。
青春時代の歌を聴くと、胸が熱くなるよね。知らずに歌っていたものが、こんなに素敵な歌詞だったんだって、大人になったいまわかることがたくさんある。
聴いている曲はだいたい名曲だから、コメント欄も平和なんだよ。そこで、おじいちゃんが死にました、とか、家族への想いを綴っている人がいて。
あ〜あったけえ場所だな。
と、思い立ち、探してきた。
おじいちゃんが死ぬ前に私にくれたメモ。おじいちゃんの声私聴いたことないんだ。甲状腺の癌だったのかな?私はよくわかってないんだけの、聴いたことないの。
まぁまぁクソ親父だったらしいけど、のらりくらりしてて、自転車漕いでどこまでもいくおじいちゃんは、私にはとても自由に見えて、あまり話すことはなかったけど、大好きだったの。
死ぬ時、そばにいることができてよかった。おじいちゃんっ子だったわけじゃないよ、全然。でも人の人生が終わる時、家族の人生が終わる時、そばに居させてもらえてよかった。
メモはね、半分何書いてるかわからないの。でも死期を悟ったおじいちゃんが必死に書いてくれたもの、かえってきてくれてありがとう、そんなことが多分書いてあるんだと思う。
おじいちゃん、私はそばにいられてよかったよ、私がかえってくるの、待っててくれてありがとう。おじいちゃん、ありがとう。クソ親父だったらしいけど孫は好きだよ、自由なおじいちゃんが。
おじいちゃんが死んでもう3年になるのかな。まだ、思い返すと少し泣いてしまう。苦しくなかったかね。死ぬ時も、生きてる時も。天国なんて場所がどうなってるかなんて私は知らないし、まだ知っちゃいけないんだけど、どうかいいところであってほしいな。声が出てるといいな。自転車用意してくれてたら神様ずいぶん優しいね。
人の死はとても大きいね。
たたかったおじいちゃんの死でもこれだけ大きい。わたしは、まだ死んじゃいけない。とても苦しい、死にたい。消えたい。なにもできない、うまくいかない。でもわたしも、幸せになために生まれてきた子供だから。
わたしはわたしでわたしをしあわせにするの。だれでもないわたしが幸せにする。大切な人たちの力を借りてわたしの人生、生き抜いてやる。
死んじゃいけないなんて、苦しいよ、そりゃ。死なせてくれよと思うよ。でも、わたしはまだ死ねない。もうすこし生きてみたい。何か見えるかもしれない、ちょっとだけそんな気がする。苦しいけど、その光に少しだけすがらせてほしい。
あぁ、眠くなってきた。
いったん充電します。